【関西の議論】
「小便みたいな泡飲めるか!」 浪速っ子も顔をしかめた国産ビール 発祥の地・大阪で根付かなかったワケとは…
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国産ビール発祥の地は大阪だとご存じだろうか? 「日本のビール発祥地は横浜で、現在のキリンビールの前身」という話はよく知られているが、実はこれは外国人の手によるもので、日本人によって初めて本格的に生産されたのは大阪・堂島だった。明治初期の、まだ丁髷(ちょんまげ)姿が残っていた大阪の町で誕生した国産ビール第1号。しかし、残念ながらさすがの新しいもの好きの浪速っ子も、慣れない琥珀(こはく)色の液体に「けったいな小便みたいな泡飲めるか!」と顔をしかめたという。(上岡由美)
■北新地に建つ石碑
大阪・キタの歓楽街、北新地。三方を道路で囲まれた小さなスペースに高さ1メートルほどの石碑がひっそりと建つ。「国産ビール発祥の地」と刻まれたこの石碑、大阪市教育委員会が平成14年に建立したもので、碑文にはこう記されている。
《渋谷庄三郎は明治五年(一八七二)からこの地でビールの製造をはじめたアメリカ人技師の指導を受け日本人の手でつくった初めてのビールといわれている》
市教委で文化財保護を担当する鈴木慎一さんに経緯を尋ねると、「もともとは外国人が横浜などでビールをつくっていたのですが、明治に入って国内でも醸造するようになりました。当時の資料はほとんど残っていないので、どこが一番最初なのか決めるのは難しいのですが…」と前置きした上で、「文献やビール会社の社史などをもとにしました。場所はビールのラベルの住所を参考にしました」と話す。
確かに調べてみると、国内で初めてビールを試醸したのは幕末の蘭学者、川本幸民(こうみん)とされ、販売用としては明治2年に横浜でユダヤ人のローゼンフェルトがビール醸造を始めている。これはその後、キリンビールに引き継がれた。
大阪都市協会が編纂した『北区史』には「造幣寮に勤務する外国人技師たちがビールを嗜むのを大阪商人は無関心ではおれなかった。わが国における企業としてのビール醸造の先覚者は北区源二七(現・天神小橋西詰西南角)の渋谷庄三郎であった」と記載。つまり、技術指導のため造幣局に招聘されていた外国人技術者に向けて製造・販売していたということで、この渋谷(しぶたに)庄三郎こそが、日本人の手によって初めてビールを商業生産した人物だった。
■官営事業として出発
そもそもわが国におけるビール醸造は明治時代、「開拓使ビール(現サッポロビール)」など主に政府の官営事業として出発した。明治維新で文明開化を歓迎する風潮が急速に広がり、ニュービジネスが花開いた時代だった。
大阪でも明治4年、政府が設置した「開商社」(通商司の支所)がアメリカ人醸造技師のヒクナツ・フルストを招き、ビール製造所の設立を試みたが頓挫。
この計画を引き継いだのが、同社に3500円を出資して頭取並という役名で綿業を担当していた渋谷だった。「ビールは年中製造できる」と早くからビール事業の将来性に目をつけていた渋谷は、堂島中町にあった土蔵を改造して「渋谷麦酒製造所」を設立。番頭の金沢嘉蔵を醸造主任に、フルストの技術指導のもと明治5年3月から「渋谷ビール」の製造を開始した。
■「にごうおまっせ」
原料の大麦は国内産、ホップの種子は輸入して栽培、イーストはパン屋から仕入れた。ビンは輸入ビールの空きビンを再利用して栓はコルクを使用。商標はイヌのマークの瀟洒なデザインだった。
明治維新で欧米化が進み、日本人の生活様式が一変したとはいえ、濁った色で、香りもツーンと鼻につくビールは当時の浪速っ子に不評だったようだ。
三善貞司編『大阪人物辞典』(清文堂出版)には、「『けったいな小便みたいな泡飲めるか』『苦い、苦い。砂糖入れて甘くしろ』と、全くの不評だった」といい、「まずい」という評判だけがたった。
サッポロビール文化広報顧問でヱビスビール記念館(東京)の端田晶(はしだ・あきら)館長(59)は「ビールがまだ日本人になじみのない当時、輸入ビールは輸送に時間がかかるため国産で新鮮なビールを作って日本に来ている外国人に売ろうという狙いがあった」と指摘した上で、「日本人にはあまり売れなかったようだ。味の問題もあるが、値段も高かった」という。
大阪府が明治30年代に公表した府下のビール製造統計によると、府内に渋谷ビールしかなかった当時、明治5年の生産量は240石(43キロリットル)で売り上げは600円。6年が250石(45キロリットル)で770円。7年が230石(41キロリットル)で685円だったという。
年間600円前後の売り上げではとうてい収支が合わない。現在の大阪市西区にあった「川口居留地」の外国人や造幣局の技師らが注文したほか、洋食の「自由亭」、料亭「天呉楼(てんごろう)」ぐらいしか置いてもらえなかった。
やがて外国人貿易商が良港を求めて川口居留地から神戸居留地へと移住するようになると、渋谷ビールはますます赤字を重ねていく。14年、渋谷が60歳で亡くなり、閉鎖に追い込まれた。
■「時代が早かった」
渋谷家は摂津の桜井谷村(現大阪府豊中市)出身で綿業を代々営む豪商。父・庄兵衛もやり手で酒造業を兼業した。渋谷はその血を引いて頭脳明晰、豪胆で商才もあり、明治に入りさまざまな新規事業を興した。51歳のとき、開商社のビール醸造計画の中止を受けてビール製造に踏み切ったが、あえなく事業は頓挫した。
渋谷家八代目・昭彦さんの妻で、大阪市北区の天神橋筋商店街で創業約270年の寝具店「さくらいや」を営む須万子さん(79)は「庄三郎は次男で、本業は綿業。ビールの方は副業やったと思います。まだビールというものが日本で認知されていなかった頃ですから、時代が早かったんですね」と語る。
■渋谷のまいたタネ
渋谷がまいたタネは大阪の町で芽吹き、中小のビール会社が生まれた。
皮肉なことに、渋谷ビールが閉鎖された頃から全国各地にビール工場が誕生する。渋谷ビールで醸造技術を習得した金沢嘉蔵は日本最初のビール技師として活躍。「渋谷ビール」に続いて大阪で発売された「浪花麦酒」(14年)や「大阪ビール」(15年)、「朝日ビール」(17年)、「エビスビール」(同)など初期のビール醸造に次々と関わった。明治20年代には、現在のアサヒビールの礎を築いた「大阪麦酒会社」が登場する。
大阪府枚方市の郷土史研究家、水知(みっとも)悠之介さん(72)は「明治維新という変革の激しい時代に新しいものに大胆に関わり、10年にもわたって頑張り抜いた」と評価。「本人が亡くなったため結果的に断念せざるをえなかったが、先駆けたという意味で大阪が誇っていい人物ではないか」と渋谷の功績をたたえた。
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